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甲府城(甲斐府中城)は、甲斐の国に存在した唯一の本格的な城郭と言っていいでしょう。
甲斐の国といえば戦国時代の武田家ですが、
甲府城は武田家の造ったお城ではありません。
武田家のいたところは、甲府城よりも北側の現在武田神社となっている躑躅ヶ崎館です。
武田信虎が石和から移り住み、信玄の代で最も栄え、
そして勝頼が新府城を韮崎に築くまでの三代に渡り
武田家は躑躅ヶ崎館を本拠としました。
武田信玄の戦略を中心に書かれた甲陽軍艦には
信玄の言葉として、「人は城、人は石垣、人は堀」
という大変有名な言葉がありますね。
武田家の滅亡後、甲斐は織田家の領地となるのですが、
本能寺の変の後は、徳川家康が治めました。
しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、家康は関東へ移封になります。
そして、秀吉は甲斐の国を家康対策の最重要地点とし、
甥の羽柴秀勝や、信頼のおける加藤光泰に築城が始められました。
そして、浅野長政・幸長父子の時に完成しました。
 
甲府城跡(右の写真に写る塔は、本丸にそびえる明治天皇に対する謝恩碑)
その後、天下分け目の合戦である関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取ると、
徳川領となり、18世紀初頭までは徳川一門が城主となっていました。
そして、18世紀初頭には幕府の信任厚い大名柳沢吉保が城主となります。
元は武田家の家臣であったという柳沢氏は城郭・城下の整備を行い、甲府は大変栄えます。
しかし、柳沢氏は20年ほどで大和郡山に移封となってしまい、
その後は幕府直轄地となり、城は勤番制となります。
甲府城の勤番はみんな余りやりたがらなかったようです。
そして、大火に見舞われたりなんなりで、次第に衰退していったようです。
明治時代には、勧業試験場や葡萄酒醸造所が設置されたり、甲府駅建設や学校建設のために
城の敷地は使われていきます。
そして、残された城跡が舞鶴城公園として解放されます。
「舞鶴城」という名前の由来は、
城郭の姿が鶴が舞うような優雅な姿であったことから由来しているといわれています。
甲府城跡(舞鶴城公園)ですが、現在は1990年からの発掘復元作業が進んでおり、
一昔前と比べると大変立派な場所になっています。
2004年には稲荷櫓が復元され、
そして、2007年の3月には山手御門が復元されました。

稲荷櫓(中はちょっとした資料館になっている)
山手御門はJR中央線をはさんで北側にあります。
甲府市街は甲府城(甲府駅とも言えます)の北側を武田城下町、
南側を甲府城下町といいます。
山手御門は、江戸時代には武田城下町(上府中)と場内を結ぶ門でありました。
門の構造は、敵の侵入を防ぐための外門と内門が設けられており、
外門と内門の間を「虎口」と言い、敵に砲弾や矢を浴びせかけられるようになっています。
 
山手御門(左)と虎口(右)
武田城下町は戦国武田氏の時代に整備繁栄した地域で、
甲府城下町は、柳沢氏の時代に特に整備繁栄しました。
天守閣の建物はありませんが、天守台には明治天皇が訪れたときの石碑があります。
また、天守台はビル7階の高さに相当し、甲府市街が一望できます。
 
天守台から見る武田城下町(左)と甲府城下町(右)。武田城下町方面には山手御門も見える

管理人の手と比べると、どれだけの高さか解りやすい
私が訪れたときには、石垣をクライミングする地元のつわもの少年達に出くわしました。
公園内には、恩賜林記念館というのがありまして、この建物の1階に
富士の国やまなし情報コーナーというのがあります。
このコーナーでは、戦国武田家の歩みや城復元の過程、また、山梨出身で
偉業を成し遂げた人々の紹介が掲載されています。
山梨の特産や名所案内のパンフレットも手に入れることが出来ます。
情報コーナーのおばさんと大分話しこんだのですが、
2007年は大河ドラマ「風林火山」効果で、
例年の2倍は県外から観光客が来ている印象があるそうです。
恩賜林の所以についても、色々積もる話があるのですが、
面倒なので、いつか書きます(^^;
 
公園内
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