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甲府盆地の西側の峡西(きょうさい)に位置しまして
現在では南アルプス市(旧櫛形町)小笠原となっています。
弓馬術礼法の宗家として大変有名な小笠原家がありますが、
その小笠原氏発祥の地です。
 
旧櫛形町のアヤメフェアで催される小笠原流流鏑馬(提供:まさやさま)
清和天皇を祖とする清和源氏の家系がありまして、
その一流の甲斐源氏の始まりは新羅三郎義光にあります。
甲斐源氏の嫡流は武田氏でありますが、小笠原氏は支族になります。
勉強不足のため詳しくはありませんが、新羅三郎義光は常陸国にいたらしく
甲斐源氏発祥の地は常陸国那珂郡武田郷であると言われています。
その後、どういう経緯かは知りませんが(ごめんなさい;)、
三郎義光の子と孫の時代に甲斐に土着することになったそうです。
大河ドラマ「風林火山」(2007)では、
幼少の武田信玄(勝千代)が晴信へと元服する折に、
「源晴信(みなもとのはるのぶ)」と呼ばれていました。
ナレーションと重なっていて聞き取りにくかったですが。
新羅三郎義光は、武田家を代表する「甲斐源氏」の祖として知られていますが、
小笠原氏は、信濃守護に命じられまして、深志城主となります。
深志城は戦国時代に武田信玄によって攻め落とされてしまうのですが、
信玄の死後、勝頼の時代に小笠原氏は織田信長の力を得まして深志城を奪い返します。
深志城はその後名前を変えまして、現在では国宝「松本城」として知られています。
尚、小笠原と言いますと、「小笠原諸島」を思い浮かべる人が多いと思いますが、
小笠原諸島の名前の由来は、小笠原氏の子孫「小笠原貞頼」により発見(伝承)された
という言い伝えからきています。
そして、「南アルプス市」と「小笠原村」は
友好都市の関係を結んでいます。

小笠原の富士川街道(国道52号)
私の中学高校の友人で小笠原の苗字の人が何人かいます。
彼らは、小笠原氏の流れを汲んでいるのですかね?

甲府盆地の南に位置しまして、現在は南巨摩郡鰍沢町となっています。
甲州街道が、「裏東海道」と言われる所以は
ここにあるのではないかと考えてしまうようなスポットです。
東海道は日本の要所を結ぶ大変大きな存在として知られていますが、
甲州街道は、途中で中山道と合流してしまいますし、
何よりも土地が開けていないので、そんなに大きな役割を担っていたのか?
と疑問を抱いてしまいます。
ですが、日本三大急流の一つ「富士川」を利用しますと、
甲州からでも峠を越えず、川を下るだけで駿河に出ることが出来ます。
そして、その富士川舟運の大きな要所が「鰍沢」です。

鰍沢の富士川街道(国道52号)
徳川家康に命じられた京都の角倉了以によって富士川が開削されまして、
富士川舟運が出来たようです。
あまり聞き慣れないかも知れませんが、
古くから「甲州商人」は全国の土地に出かけては、
その土地の特産物を甲斐に持ち帰って紹介するなど活発に動いていたんですよ(^-^)
そんな甲州商人の気質がそのまま、
「若尾逸平」「根津嘉一郎」「小林一三」等に代表される
「甲州財閥」へと受け継がれたんじゃないかなぁ、
山梨出身者としてはこの気質を大切にしなきゃいかんなぁ、
なんて感慨に耽っていたりもします(^_^;

山梨県の南に位置しまして、現在では南巨摩郡南部町となっています。
「南部」と言いますと岩手の「南部鉄」や青森県を思い浮かべる方が多いと思います。
鎌倉時代から奥州に南部氏というものが存在したと言われ、
江戸時代には南部藩(盛岡藩)として岩手〜青森を治めていました。
南部氏のそもそもの発端は、
こちらも新羅三郎義光でして、甲斐源氏であります。
詳しいことは勉強不足ですが、
甲斐源氏の血筋で、この地(南部)を与えられた者が
南部氏を称したのが始まりです。

南部より眺めた富士山
なぜ奥州に移り住んだのかは詳しくは知りませんが、
源頼朝の奥州藤原氏討伐の際に南部三郎光行が
功績をあげまして、奥州の地を与えられたと聴いています。
余談になりますが、戦国時代に甲斐の武田氏が
あれだけ名を上げることが出来たのは、
全国へ展開していた甲斐源氏の流れを汲む者達の
ネットワークによるところも大きいのではという意見もあります。
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